町名の謎【新宿編 その8 -新宿御苑駅周辺-】

新宿御苑駅(丸の内線)~新宿駅(丸の内線・JR線)
~東新宿駅(大江戸線)近辺

東京メトロ丸ノ内線の新宿御苑駅から、JR新宿駅、都営地下鉄大江戸線の東新宿駅近辺の地名の由来についてご紹介します。

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富久町(とみひさちょう)

修行院、薬王寺、自証院の各門前町を明治5年にまとめ町名とするときに、末久しく富んだ町にしたいという願望を込めこの名にした。

新宿(しんじゅく)1丁目~4丁目

もともとは内藤町と同じく内藤新宿の中であった。宿場としてはこちらの方がメインであったために「新宿」の方の名が残り、大正9年に新宿という正式な町名になった。

新宿(しんじゅく)5丁目~7丁目

4丁目と5丁目は、ちょっとおかしな具合に離れているが、それは、5丁目から7丁目はむかし東大久保というところだった。今も「都営東大久保一丁目アパート」「東大久保公園」等、建物その他の名前に名残が見られる。


今回、区の名前にもなっている「新宿」という地名が出てきたところで、簡単な区の歴史を載せておきます。

現在の新宿区は昭和22年3月15日に、かつての四谷・牛込・淀橋区が統合して成立しました。

四谷、牛込の両区は、明治11年、東京府15区のうちの区として誕生していました。一方、淀橋区は、まだ豊多摩郡の中で淀橋町、大久保町、戸塚町、落合町に分 かれていました。市街化が進むにつれ、この4町の人口がいちじるしい伸びを示すようになり、市部と郡部の行政格差が目立つようになりました。そのため、昭和7年10月、前記4町を併合して淀橋区ができました。

このころになると新宿駅周辺は百貨店、映画館、劇場、カフェーなどがひしめく、一大繁華街に変ぼうを遂げ、明治以降、山の手の繁華街として有名だった四谷、神楽坂にとって替わりました。

昭和20年5月から8月にかけての東京大空襲は、戦前華やかだった新宿駅周辺、四谷、神楽坂、高田馬場も焼野原に変え、区の大部分の地域が焼失してしまいました。戦災前、旧3区の戸数は6万3295戸を数えて いましたが、戦時中の建物疎開や戦災で約1割に、人口も戦前は約40万人近くありましたが、終戦時には約2割へと減少してしまいました。

その後、こうした混乱の中から、区も復興していき、民主主義国家を目ざした憲法の改正、これに伴う地方自治制度の諸改革が行われ、昭和22年3月に当時の四谷・牛込・淀橋の3区が統合し、新しい「新宿区」が誕生し たのでした。