新宿区信濃町駅(JR線)・国立競技場駅(大江戸線)~新宿御苑前・四谷三丁目駅(丸の内線)近辺
新宿区の信濃町駅、国立競技場駅から新宿御苑前、四谷三丁目駅近辺の地名の由来についてご紹介します。
南元町(みなみもとまち)
鮫河橋一帯に開けていた町。明治5年に鮫河橋町の大本ということで「元」を冠し元鮫河橋町、元鮫河橋南町といい、明治44年に「鮫河橋」を省いた。昭和18年(1943)にこの元町と南町を合併してこの名がついた。
信濃町(しなのまち)
大和櫛羅藩主・永井信濃守の別邸があったことからこの名がついた。江戸時代には信濃殿町、信濃原とも言われていた。
内藤町(ないとうまち)
徳川家康の江戸入城のとき、家臣の内藤清成がこの地を拝領した。その後元禄11年(1698)にこの地に新しい宿場が浅草町人によって開かれ、内藤新宿と名づけられた。明治5年にそのまま町名となり、明治44年に「新宿」を省いた。
大京町(だいきょうちょう)
昭和18年(1943)に右京町と大番町が合併した。お互いから一文字ずつをとってこの名になった。
霞岳町(かすみがおかまち)
内藤新宿やこの周辺は往古霞村とよばれていて、その台地のところにあったためにこの名がついたらしい。
なんじゃもんじゃの木
なんじゃもんじゃの木って聞いたことありませんか。昔話に出てきたり、あるグループが歌の題材にしたこともあります。信濃町、明治神宮外苑に、その木があります。
「なんじゃもんじゃ」というのは俗称で、「ヒトツバタゴ」という立派な学名があります。江戸時代末期、6つの道の交差点に立っていたことから「六道木」とも呼ばれていました。明治神宮外苑庭園課によると、なんじゃもんじゃと名付けられた木は全国に少なくとも45本あり、ヒトツバタゴ以外に、クスノキ、ハルニレなどが各地でこう呼ばれているそうです。
名の由来には諸説あります。
『その地方で見慣れぬ木を「名前がわからない」という意味で呼んだ。』
『神木など尊い木を崇拝する気持ちから、ありふれた名を付けたくなかった。』
『時代劇「水戸黄門」で知られる水戸光圀が、ある神社で「この木はなんじゃ」と尋ねたところ、聞き取れなかった地元の民が「なんじゃもんじゃ」と問い返した。』等々……。
『本当のところはよくわからない』というのが真相のようですが。
ちなみにここのなんじゃもんじゃの木は2代目だそうです。
<ヒトツバタゴ>
モクセイ科ヒトツバタゴ属の落葉高木。日本では愛知県、岐阜県、対馬だけに自生する珍木のひとつ。大きなものは25~30mにもなる。「タゴ」とはトネリコのことで、トネリコは羽状複葉なのに対し、この木は単葉なことから「一葉(ひとつば)たご」という。
隣人同士でなにがあったの?
延宝八年六月江戸芝の増上寺で四代将軍家綱の死去による大法会が営まれることとなり、法事の奉行に永井信濃守、土屋相模守、内藤和泉守の三人が選ばれ、御目付役は日根権十郎が勤めた。
役目の上の意見の相違があったものか、内藤和泉守は不意に脇差を抜いて永井信濃守の後から斬りつけた。永井は後を向いて斬り合おうとしたが、痛みに耐えかねて倒れてしまった。
内藤はその場に居合せた大名たちに取押えられ、翌日切腹を仰せ付けられ、家は断絶となった。
「宮津事蹟記」では最初、永井が内藤に斬り つけたが刃先が鴨居に切込み仕損じた。その隙に、内藤は振向きざま永井を一刀のも とに斬ったといっている。
という、話があります。地名からわかるように、永井信濃守と内藤和泉守はおとなりさん。この忍傷事件は、忠勝の失心ということとなっていますが、失心や役目上の意見の相違だけじゃなく、双方30前後とまだ若く、吉原通いの舟の行き違いのときのにらみ合いや永井家の高く建てた 茶室による紛糾など、隣同士であるが故のいざこざで元々犬猿の仲だったようです。
加えて、増上寺での大法会のときの御門警護や非時振舞いに関し、尚長から忠勝の役目に対する皮肉やはかりごとなどによって、忠勝は面目を失い、腹にすえかねた忠勝は、尚長の詰めている部屋に押し入り尚長を切り、とどめをさしたというものです。
どうも、どこかで聞いたことのあるような話ですね。そう、21年後の元禄14年(1701)に起こった江戸城 松の廊下の忍傷事件です。
このとき吉良上野介に忍傷に及んだ浅野内匠頭長矩の母親が、実は和泉守忠勝の実姉です。何かしら因縁を感じさせるものがありませんか。