新宿区神楽坂駅(東西線)、牛込神楽坂駅(大江戸線)近辺
新宿区の神楽坂、牛込神楽坂駅の周辺の地名の由来についてご紹介します。
赤城元町(あかぎしたまち)
赤城神社の下にあることからこの名がついた。
赤城下町(あげばちょう)
神田川の荷揚げ場であったので、この名がついた。
中里町(なかざとちょう)
早稲田村(今の早稲田町、早稲田鶴巻町等)と兵庫町(今の神楽坂)の中間にある町だったのでこの名がついた。
白銀町(しろがねちょう)
慶長年間に、田安村(現在の千代田区丸の内公園辺り)という、住民が貧窮していた村があった。その住民を移住させるにあたり、新しい土地では裕福になるようにとこの名をつけた。
天神町(てんじんちょう)
大友宗麟の孫義延が徳川家光からこの地を拝領し、邸内に大宰府天満宮を勧請したことから名づけられた。
矢来町(やらいちょう)
寛永5年(1628)、酒井忠勝が徳川家光からこの地を拝領した。屋敷の垣根に竹矢来を使 ったことから、明治5年にこの名がついた。
岩戸町(いわとちょう)
天照大神の天岩戸伝説に由来していて、アメノウズメノミコトが神楽にあわせ舞を舞ったという話から、神楽坂に並べてつけられたという説がある。
横寺町(よこてらまち)
今の神楽坂6丁目に通寺町という地があった。その横の町で、ここも寺町であったことからこの名がついた。
箪笥町(たんすまち)
正保2年(1645)に、具足奉行組同心、弓矢鑓奉行組同心がこの地に住まわされた。これらのような武器を御箪笥と総称してい、その名がついた。
横寺町(よこてらまち)
今の神楽坂6丁目に通寺町という地があった。その横の町で、ここも寺町であったことからこの名がついた。
袋町(ふくろまち)
今神楽坂5丁目になったところに肴町という地があった。肴町の横町の奥の袋小路のようになっていた部分がこの名になった。
北町(きたまち)・中町(なかちょう)・南町(みなみちょう)
江戸時代初期には、天竜寺という寺の境内地であったが、天和3年(1683)に寺が焼失、 新宿4丁目に移転した。その後幕府徒組屋敷となり、北側を北御徒町、中央部を仲御徒町、南側を南御徒町とよんだ。明治5年(1872)に「御徒」を略し、「牛込」を冠したが、 明治44年に「牛込」も略し現在の町名となった。
納戸町(なんどまち)
ここも天竜寺の境内地だったが移転後、御納戸同心の拝領した町屋敷になったことから名がついた。
払方町(はらいかたまち)
ここも天竜寺という寺の境内地。移転後、払方御納戸同心の拝領地となったことからこの名がついた。
市谷砂土原町(いちがやさどはらちょう)
この地に本多佐渡守の屋敷があったため、佐渡原とよばれた。後、この地から市谷田町埋めたての際に土を取ったことから砂土原と字を変えるようになった。
北山伏町(きたやまぶしちょう)・南山伏町(みなみやまぶしちょう)
江戸初期に山伏の修験者が多く住んでいたためについた。享保8年(1723)に焼失したが 名がそのまま残り、明治5年(1872)に北と南とに分割した。
二十騎町(にじっきまち)
先手与力二組の拝領地となったことに由来する。一組10騎で構成されたためこの名になった。