西武新宿駅(西武新宿線)~高田馬場駅(東西線・JR線・西武新宿線)近辺
西武新宿線の西武新宿駅から、東京メトロ東西線の高田馬場駅近辺の地名の由来についてご紹介します。
歌舞伎町(かぶきちょう)
もとは東大久保、角筈、三光町などであったが、昭和22年に戦後復興にあたりここを文化新興都市にしようという計画が持ち上がり、その目玉として歌舞伎演舞場を建設する計画が持ち上がった。このため「歌舞伎町」という名を与え建設を進めようとしたのだが、終戦直後の金銭面での問題や地の利などの問題で頓挫した。
昭和25年の産業文化博覧会や昭和27年の西武線延長などで地の利が高まり、結果繁華街となりいつしか今のようになった。名は体を表さない典型となってしまった。
大久保(おおくぼ)
この一体が大きなくぼ地になってることから大窪、転じて大久保となったらしい。昭和53年の住居表示で正式に町名になった。犬小屋があった地でもある。
百人町(ひゃくにんちょう)
内藤新宿から伊賀者の鉄砲隊が移住し、大久保百人大縄屋敷とよばれた。明治5年に大久保百人町となり、昭和7年の旧淀橋区成立の際にこの名になった。
高田馬場(たかだのばば)
この周辺は戸塚村とよばれていたが。別名高田ともよばれていた。これは徳川家康の子松平忠輝の母高田殿の遊覧地であったことに由来する。寛永13年(1636)に徳川家光がこの地に馬場を造ったがここが高田馬場とよばれた。
町名は戸塚町であったが昭和50年の住居表示により、駅名のために知名度の高い高田馬場を地名にしてしまった。
■ 大久保の悪法に関る犬小屋
皆さんご存知の、5代将軍綱吉が出した「生類憐れみの令」。それに基づいて、元禄7(1694)年に、飼い主のいな い犬を収容するために、数箇所に広大な犬小屋が建てられました。 (中野に建てられた犬小屋が有名です)野犬を捜して集め、その数は10万匹以上になったということです。
宝永6(1709)年に綱吉が亡くなると同時に「生類憐れみの令」は廃止され、六代将軍家宣の時に犬小屋も廃止されました。
現在、美味しい韓国料理屋が多い街として名高い大久保ですが、その時代、この辺りにもその犬小屋は建てられていました。
ある侍が五歳になる息子の病気を治す薬にしようとツバメを吹き矢で殺したところ、親子とも死罪になった。
悪法として名高い、生類憐みの令ですが、その根拠になった本が、江戸時代の何冊かの本だそうです。上記は、その一つである、「御当代記」の一節で、子を思う親 心からなのにひどすぎると、だれでも思う話です。
ところが、幕府の正式記録の死刑の理由を見てみると、病気の息子は出てこず、先代の将軍家綱の命日である にもかかわらず、吹き矢遊びで殺生したため、となっているそうです。現代から見れば、これでも十分重すぎますが、一般に知れ渡ってる印象とはちょっと違いませんか。
それから、同本にはこんな話もあるそうです。
将軍綱吉の時代になってから、犬を保護することになり、犬目付けという役人がすみずみまで見回り、犬を叩いたり虐待する者を告発するので、江戸から追放されたり牢屋に入れられる者が多い。
増山兵部の家来はかみついてきた犬を切り殺した罪で切腹、土屋大和守の家来はかみついた犬を切ってけがをさせた罪で
江戸から追放、主人の大和守も謹慎。土井信濃守の家来は犬を叩いた罪でくびになった。そんなわけで、人々は犬に接するとき身分の高い人に対するようにおそれおののき、お犬様と呼んでいる。
お偉いさんの実名まで出しての説明・・・江戸時代によっぽど詳しい方じゃない限り、事実だと思ってしまいます。が、3人目の土井信濃守は、この時代より10年も前に亡くなっていたそうです。この本の著者、歌人戸田茂睡(もすい)は、当時失業中で、政治を皮肉な目で見ていたようです。
同本の中で、「将軍様の家来は、獣はもちろん、鳥や魚介類、卵にいたるまで、門から中に入れないそうだ」とか、「命あるものはノミ、シラミ、蚊、ハエすら殺しません と下男にまで書かせた家もあるそうで、その家では水の中のボウフラが死ぬといけないから、ほこりよけに水まきもしないんだそうだ」などの、冗談もまじっていました。
そして、これが事実だとして広がったのには、新井白石が関ってるようです。彼は、家宣は6代将軍になった時に、遺言に逆らってまで何十万人もを処罰した悪法だった生類憐みの令をやめたと書き残しています。将軍となってわずか4年でなくなった、自分が家庭教師をした家宣を褒め称えるために、綱吉をこき下ろしたようです。
生類憐みの令は、犬を中心とした動物を大切にすることが目的ではなく、そうすることで人々に思いやりの心を育てようとしたものですが、悪法として名が通ってしまったのは、それなりにいろいろとまずいところがあったからなのでしょう。
■ 百人町の鉄砲隊・百人組
江戸時代、幕府警護のために鉄砲隊が組織され、これを「百人組」といいました。百人組は、その名の通り百人を一組とした計4組の鉄砲隊からなり、それぞれ二十騎組、伊賀組、根来組、甲賀組といいました。(大久保の百人組は伊賀組です。)
現在の「百人町」の名前は、この界隈に百人組の同心屋敷があったことに由来します。「百人町」は、おおまかに言って大久保駅と新大久保駅にはさまれた一角です。昭和16年 の地図にも百人町一丁目から四丁目までが現在と同じ位置に記(しる)されているそうです。この辺りの区割りは細長く、一説によるとそれは「鉄砲場(鉄砲練習のためのシューティングレンジ)」が設けられていたからだというそうです。
実は百人組の給料は低かったそうです。組名から考えると、百人組みは忍者出身でしょう。身分の低い扱いの人たちなので、給料が安いのは当然かもしれませんが、それではやっていけません。そこで、幕府から支給された土地を組内で配分し、生活のためにツツジ栽培を始めました。要するに内職です。これが広まり大久保周辺では盛んにツツジの栽培が行われるようになったそうです。花が盛りの頃の風景はひときわ美しく、明治以降も東京名所の一つに数えられたといいます。
山の手線新大久保駅のすぐ近くに、鉄砲のまちにふさわしい名前の、皆中稲荷神社があります。「階中」とは百発百中を意味する言葉で、大当たりを狙って受験生の祈願が多いそうです。二年に一度百人町の由来となった「鉄砲組百人隊」を顕彰する祭りがあり、この神社にはその保存会が設置されています。