
城北の隠れた素顔発見!このまちをもっと好きになる
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やがて、父親の第二夫人がきりもりしていた事業地で生活をはじめるが、使用人同士のケンカや色恋沙汰など、幼い守一の目には複雑な人間関係が刻まれていった。 1900年には、父親の反対を押し切り、東京美術学校(現東京芸術大学)に入学。ところが在学中に父が莫大な借金を残して他界。困窮生活に陥るが、卒業後は、樺太漁場調査隊に雇われ、記録画を担当することになる。
守一が結婚したのは42歳のとき。相次いで子どもが5人生まれた。しかし、食べるための絵が描けず生活は極貧状態であったという。しかも、子どもたちは体が弱く、医者にかかろうにもお金がなくて行くことができない。次男と三女、長女が病死した。「そのころはとてもヤル気がなかった。気がないのに、絵を描いても仕方がない。」(『へたも絵のうち』より)と、当時を回想する言葉を残している。
1932年(昭和7年)に晩年の住処となる千早に転居するが、軒が傾いたボロ家を気に入り、庭をよく歩き回ったそうだ。鳥や植物などの世話をしながら自然を観察し、ほとんど外出せずにアリや猫、虫などを描き続けた。 「私はだから、誰が相手にしてくれなくとも、石ころ一つとでも十分暮らせます。石ころをじっとながめているだけで、何日も何月も暮らせます。」(『へたも絵のうち』より) 1977年(昭和52年)8月、守一は老衰で死去。その後、守一の次女で自身も画家である榧さんが、この旧宅跡に1985年(昭和60年)、「熊谷守一美術館」を開設した。そして昨年11月には、豊島区が榧さんより守一作品153点の寄贈を受け、豊島区初の区立美術館としてリニューアルオープン。末永く守一作品を後世に伝えていくことになった。 終始マイペースに無私の人生を送った画壇の仙人、熊谷守一。生まれ変わった同館で、守一の息吹を感じてみてはいかがだろうか。 見どころ 守一は器用にあれこれやる人ではなかったため、主な作品は油絵で、4号の小品がほとんど。1910年代の油絵は、美校の黒田清輝にほめられたというアカデミックな暗い絵が多いが、だんだんタッチがあらくなり、「冬の海」(1947年)あたりから線と面の画風のきざしが見える。第1展示室には、寄託作品を含めて30点ほど展示している。
![]() 見どころ 守一は、墨絵や書の作品も残している。“墨絵”は日本画ではなく、筆と色墨で和紙に描いたもので、「蟻」(45cm×57cm)、「裸婦」(37cm×44cm)など、同館では常時15点ほど鑑賞できる。“書”については、守一が生きているとき「書は余技だから」と、画商さんに無償で差し上げていたというエピソードも。
![]() 3Fは、個展や展覧会など創作作品の発表ができる「ギャラリー」のスペース。毎週金曜日の18:00〜20:30に、「人体デッサン会」(参加自由・予約不要・参加料1,500円)も開催。
父が住み続けたこの地に、「熊谷守一美術館」を創立してから早いもので22年が過ぎようとしています。「個人が美術館を続けていくのは難しい」と、多くの人から警告を受けながらもなんとか低空飛行で持ちこたえてきました。ところが三年前に、モリ(父・守一のことを私はこう呼んでいた)の出生の地である岐阜県立美術館学芸員の廣江泰孝さんから、「ゆくゆく多くの守一作品が散逸するのは大変惜しい。それならば公共機関などへ寄贈したらどうか」と薦められました。 熟考した末、すべての所蔵作品を豊島区に寄贈し、このほど区立美術館として再オープンの運びとなったのです。 1階と2階は守一の常設展示となり、3階のギャラリーでは、各地で活躍する作家の油絵や書、彫刻、陶芸などの作品を紹介していきます。区立美術館になったことで、この地に暮らした画家の姿を知っていただける良い機会になればと願っています。
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