
城北の隠れた素顔発見!このまちをもっと好きになる
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その後、マッケーレブは「日本の将来は立派なクリスチャンとしての品格を備えた青年を育成することから始まる」と考え、キリスト教精神に基づく“青年教育”を実現するために、築地居留地内の自宅を5000ドルで売却。その資金で、青年教育のための学校を建てようと、目白台に2500坪の広大な土地を求めた。しかし、当時の日本女子専門学校(現・日本女子大学)から「女子学校の隣に男子学生寮は困る」との意見があり、代替地として雑司が谷の土地を入手したのである。 この地に1907年、全寮制の「雑司ヶ谷学院」を開校。敷地内には、マッケーレブの居宅(現・雑司が谷旧宣教師館)が建てられた。学生は、昼間はそれぞれの学校に通い、夜間は同校で英語と聖書を学んだ。開校当初、学生は寮生13人、通学生5人だったという。
1928年には、学院建物を売却し、その資金で「雑司ヶ谷幼稚園」を創設。このとき土地を一部売却したため、マッケーレブ邸は曳家により現在の場所に移動することに。そして1941年には、第二次世界大戦で余儀なく帰国を命じられる。その後、日本に戻りたいとの思いは届かず、1953年、永遠の眠りにつく。享年92歳。 約50年間、日本で活動したマッケーレブ。その教えは、今なお多くの人々に受け継がれている。 |
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1982年に、豊島区が雑司が谷旧宣教師館を購入。1989年に一般公開がスタートした。同館は豊島区内に現存する最古の近代木造洋風建築であり、都内でも数少ない明治期の宣教師館として大変貴重なものだ。 1999年には、東京都指定有形文化財にもなっている。 同館は、19世紀後半のアメリカ郊外住宅の特色を写した質素な木造2階建ての住宅で、細部にゴシック様式のデザインが施されているのが特徴だ。1階は日曜学校や教会事務所、会食など公の場として使われ、2階はマッケーレブ個人が使用していたという。
建物の白い外壁はスカート状に広がり、大工さんのゴシック様式といわれるデザインが、“上げ下げ窓”や“玄関ポーチの方杖”などに見られます。西洋館では暖炉の煙突数が建物のステータスシンボルといわれるらしいのですが、マッケーレブの家はワンフロア3部屋の暖炉を背中合わせに配置することで、煙突一本でまかなっています。合理的、経済的に作られているんですね。庭にはベンチがありますので、四季折々の草花とともにゆっくりご鑑賞ください。
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